日々のつぶやきです
第二次世界大戦当時 日本ではドイツやイギリス・イタリアと並び噴流式発動機
(ジェットエンジン)の独自開発が進んでいたものの これらの國とは違いまだジェット戦闘機
などという形で実用化されていなかった しかし種子島時休海軍技術大佐(後の日産自動車
顧問)の下でネ10・ネ10改(推力230kg) ネ12(推力300kg)ネ12Bなど
豊富な開発経験後の蓄積があった
1944年夏に 高速で高高度を飛行して敵の迎撃をかわし 目標まで到達する
というコンセプトの攻撃機である橘花(きっか)の開発において 機体には
そのような 高速飛行を実現出来るターボジェットエンジンの搭載が決定
そこで研究を続けていた噴流式発動機の研究を基に 空技廠と石川島重工業が
官民一丸となって開発を勧めることになった 開発の過程で問題になったのは
耐熱性素材の確保であった 当時はコバルトやニッケル等の希少金属の使用が
制限されており 止むを得ずステンレス鋼が使われた 開発は当初神奈川県の
空技廠で勧められたが 後に疎開し秦野市にある専売局の倉庫で実験が行なわれた
また1944年7月にドイツからもたらされたBMW003の図面を基にしているが
完全なコピーでない そもそも図面の大部分と実物のエンジンが記載されていた
伊号第二九潜水艦が撃沈された事により 海没しているのでコピーのしようが
なかった
ネ20は12基試作され 4基が地上実験 1基が空中実験に供されて 残りが
橘花の飛行試験に充当された そして1945年8月までに約50基が量産された
橘花は1945年8月7日に木更津航空隊基地で初の試験飛行(約11分)に成功
同年8月11日2回目の試験飛行で離陸失敗し大破 そのまま終戦を迎えたため
実戦には参加できなかった
橘花があと2~3年早く開発されていたら 原爆投下は無かったろうし 東京大空襲
も無かったかもしれない
genesis-ot.jp
落雁の起源や由来には諸説あるが 日本ではじまったのは室町時代といわれちょる
当時中国明朝との貿易が盛んに行われ さまざまな商品が日本に輸入されるなか
軟落甘(なんらくかん)という中国菓子が日本に渡来 この軟落甘が落雁の祖先に
なったといわれ 名称も軟落甘の軟を取り去って落甘から落雁となった
落雁が供えられるようになった理由には諸説あるが 目連というお坊さんが
行った百味飲物(ひゃくみのおんじき)が由来となっているという説がある
目連は亡くなった自分の母親だけでなく 恵まれない人たちに対しても百種類を
超える食べ物や珍味を施したそうで それが百味飲物(ひゃくみのおんじき)と
呼ばれている 施されるものの中でも甘いものが良いとされていたため
甘い落雁が供えられるようになった
落雁は 米や豆などの穀物に 砂糖や水飴を混ぜ 木型に強く押し固めて乾燥させる
打ち物と呼ばれる伝統的なお菓子である 昔は茶会で使われる逸品でもあった
genesis-ot.jp
精霊流し
去年の あなたの 思い出が
テープレコーダーから こぼれています
あなたの ために お友達も
集まってくれました
二人で こさえた おそろいの
浴衣も 今夜は 一人で着ます
せんこう花火が みえますか
空の上から
約束通りに あなたの愛した
レコードも一緒に 流しましょう
そしてあなたの 舟のあとを
ついてゆきましょう
私の小さな弟が
何も知らずに はしゃぎ回って
精霊流しが 華やかに
始まるのです
あの頃あなたがつま弾いた
ギターを私が 弾いてみました
いつの間にか さびついた糸で
くすり指を切りました
あなたの愛した母さんの
今夜の着物は浅黄色
わずかの間に年老いて
淋しそうです
約束通りに あなたの嫌いな
涙は見せずに 過ごしましょう
そして黙って船のあとを
ついてゆきましょう
人ごみの中を縫う様に
静かに時間が通り過ぎます
あなたと私の人生を
かばうみたいに ♩
この曲は1974年(昭和49年)に出た曲 さだまさしさんがクレープちゅ~
グループで活躍してた頃 あなたは1974年生まれちょりましたか? 幼児?
小中高校生? 大学専門学生? 社会人?
拙者はJR中央・総武線の水道橋と御茶ノ水の間のデザイン学校に通っちょりました
毎日授業と課題とアルバイトに勤しんで 硬派の生活を送っちょりました
そんな青春の1コマです
genesis-ot.jp
明治19(1886)年8月11日和歌山県出身の森本彦三郎 若い頃より英語が堪能だった
関係もあり 18歳時「文明の進んだアメリカに行って新しいことを学びたい」と単身渡米
最初に働いていた食堂でマッシュルーム(ツクリタケ)の話を聞き これの人工栽培を身に
つけるためマッシュルーム農家でアルバイトをしつつ技術の学習をして 1912年ついに
マッシュルームの人工栽培に成功
1921年に帰国した後も国産マッシュルームの生産を行う森本農園 そして
日本シャンピニオン株式会社を立ち上げ 日本国内におけるマッシュルームの生産拡大に寄与
日本シャンピニオン株式会社の倒産後も研究を続け ついには1928年 エノキタケを
おがくず等をベースにした培地で育成する
おがくず人工栽培法を確率 食用キノコの大量・安定生産に向けた福音となった
1949年 栽培舎の整備中の事故により帰らぬ人となる しかしながら確率された
おがくず人工栽培法はその後も広がりを見せ シイタケなど他の木材腐朽菌系食用キノコの
生産にも応用されて 今日におけるキノコ生産の基本である 菌床栽培法に繋がっている
genesis-ot.jp