昨日久しぶりに渓へ行ってきた
暑い上に渇水気味で 以前行った時に厳しい状況だったのと お盆は殺生せんと決めちょったため
間が空いた この前の線状降水帯の影響で かなりの雨量があったため 多分増水しちょるけぇ
溪魚の活性が以前より上がっちょると思った
ぢゃが所詮夏場 夏ヤマメ1里1匹ちゅ~諺にもあるように 数は望めんぢゃろぅ
案の定増水・・・・・・・・・・・・・・・・ 大雨からだいぶ経つが 結構な雨量があったんぢゃろぅ
早速用意し入渓 フライの選択は夏場の定番のやや小さめの#16からスタート
ぢゃが十分な水量と増水のための水温低下で え~かと思ったが反応が鈍い 暫くは反応も少ない
出が悪いし増水ぢゃから フライのサイズを#14に上げた
ようよう出ました 入渓地点から割と時間が掛かった 勿論大場所で水量はあるが 多き場所だけに
若干流れが緩やかなところ
あげた地点の近くで追加
ライズを狙い撃ち ぢゃが何にライズしたかは不明ぢゃ
ぢゃが気になることもあった 3年ぐらい前にもブログで書いたが 釣ったヤマメの側帯にチョウモドキが
付いている 割合的には60%ぐらい 場所によるんか不明
蝶が給水しちょります
蝶には悪いが その横で釣らせていただいた
夏ぢゃけぇ 数は多くなかったが まぁまぁ楽しめた
夏の終わり=高津川の2025シーズン終了 出渓地点で暫くここは着てなかったから ぬゎんと草木笹が伸びて
出るのにかなり時間が掛かった 今度入る時には鎌がいるのぉ・・・・・・・・・
お盆休みも終わり 今日から通常業務になられた方も多いと思う
ぢゃが残暑厳しいおり 皆々様義自愛くだされ
暑さ対策の一環で 昔から行われちょるんが打ち水
打ち水は江戸時代から続く日本の風習で 涼をとるだけでなくお清めやおもてなしの意味も持っている
近年ではヒートアイランド現象の対策として 行政や自治体も打ち水を推奨している
打ち水は電気などのエネルギーを使わずに 手軽に涼しさを得られるエコな暑さ対策と言える
昔は今より暑くは無かったと思うが 扇風機も無い時代に手軽に雀る方法は団扇ぐらい 寝苦しい夜は部屋は
開けっ放しで 蚊帳で涼をとる 今はエアコンや扇風機などあるが 昔は昔でやはり夏は大変ぢゃと思う
打ち水すると気温が下がるのは事実 それは気化熱のせい 夏の渓流でも水に濡らしたタオルを首にかけると
気化熱でかなりひんやりする またはコットン性の帽子を水に浸し被るのも効果的
また家の近くでも 打ち水によってアスファルトやコンクリートの地面の温度が下がり体感温度も下がる
打ち水の散布のコツは 日中の暑い時間帯よりも朝や夕方など 気温が比較的低い時間帯に打ち水をするのが効果的
日向よりも日陰に打ち水をする方が水が蒸発しにくく効果が長持ち 風呂の残り湯や雨水・近場の河川の
二次利用できる水を使うとより経済的で効果的ぢゃ 水巻きなど大した手間では無いから 打ち水して
少しでも温度を下げて涼しくお過ごしくだされ
日本の場合地図の記号で 神社の印である卍(まんじ)
卍はサンスクリット語でスバスティカ またはスヴァスティカと表記
吉祥・幸福・幸運などの意味
卍は ヒンドゥー教・仏教・ジャイナ教などの宗教で 吉祥のシンボルとして用いられている
仏教では 卍は仏陀の胸や足の裏に現れる印とされ 仏の智慧や慈悲を表すとされている
日本では 卍は寺院の地図記号として用いられるほか 家紋や仏具などにも使われている
卍には 右卍(右回り)と左卍(左回り)の2種類があり 一般的に右卍は慈悲や調和を
左卍は力や魔除けを表すとされている
ぢゃが欧州に中には あのアドルフ・ヒットラーのハーケンクロイツを連想するから・・・・・・・・・
そんな非難が一部ある
ハーケンクロイツとまんじは形が似ているものの 意味と歴史的背景が大きく異なるシンボル
ハーケンクロイツはナチスの象徴として負の歴史的意味合いを持つ一方 まんじは仏教のシンボルとして
平和や繁栄を象徴
まんじには長い歴史がある アドルフ・ヒトラーがナチスの旗をデザインする少なくとも5,000年前には
既に使用されていた まんじは サンスクリット語のスヴァスティカに由来し 幸運または幸福といった意味
かぎ十字のモチーフは 新石器時代のユーラシア大陸で最初に使用され 空を横切る太陽の動きを表したと
されている 今日でも ヒンドゥー教・仏教・ジャイナ教およびオーディン教の神聖なシンボルとなっている
インドやインドネシアでは寺院や民家によく見られる
なら欧州に聞きたいが 赤十字のマークはいいのか?
赤十字は中東諸国では 病院としては一切使われない 理由は簡単で十字軍の遠征があったため
中東では今尚十字軍を忌み嫌う
十字軍と言えば 1096年の第1回から1272年の第9回まで アナトリア半島からエジプトの中東地域に
十字軍国家支援のためにキリスト教徒軍が展開した一連の戦い
だからこそ中東諸国特にイスラム教徒の多い国には 赤十字など受け入れない国がほとんど
話を戻すが たかが100年そこいらの ナチスドイツのハーケンクロイツを5,000年の歴史がある
卍を卑下することは許されることではない まさに赤十字と同じ文化の押し付けである
要は白人のモラルが 他の有色人種より上であるという白人至上主義である
植民地にしても 十字軍にしても 白人は自分たちの考えが一番という考えで 他国を虐げる風習が多い
スポーツ競技にしても 他国が優勢になると 欧州が有利になるようにルール改正する民族であるという
ことを忘れないで欲しい
昨日日本の各政党の談話が出た・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
詳しくは
【終戦の日】戦後80年を迎えた国政政党の談話・声明まとめ | 日本最大の選挙・政治情報サイトの選挙ドットコム
その中で個人的感想で素晴らしい談話だったんが参政党だった
コピペします
我が国は いま大東亜戦争終結から80年という 大きな節目を迎えています。 遡れば戊辰戦争から157年
不平等条約の改正を求め 脱亜入欧の旗のもと 西洋列強の帝国主義の掟に合わせて軍事力を競い抜いた77年の
歩みは 大東亜戦争の敗戦によって幕を閉じました
その中で行われた幾多の戦いにおいて 祖国と家族を護るため 尊き命を捧げ 散華された英霊の御霊に対し
私たちは心から哀悼と感謝の誠を捧げます
その崇高な精神と犠牲の上にこそ この80年間 我が国は軍事的な戦火に巻き込まれず 平和と繁栄を
享受してきたのです
戦後の前半 日本は軍事では敗れながらも 経済の戦いに挑み 不死鳥のごとく焼け野原から立ち上がりました
そして歴史に類を見ない復興と発展を遂げ 世界中を驚かせたのです
しかし我が国は後半の30年で「失われた時代」に突入しました
国際競争力は低下し 貧困が進み 人口減少の波が押し寄せ 国民は将来への希望を見失いつつあります
経済の停滞は暮らしを圧迫し エネルギーや食料の自給力の低下は 国家の安全そのものを揺るがす
事態となっています
その中で 今こそ私たちは明治維新からの160年 大東亜戦争終結からの80年を総括しなければなりません
先人は何を思い いかに戦ったのか
歴史の光と影を学び 二度と国民を戦禍にさらすことなく グローバリズムの荒波を乗り越え
命を懸けて護られた「日本」を未来へと繋ぐ それが今を生きる私たちの使命です
この節目の年 参議院議員選挙が行われ 長らく戦後日本の政治を牽引してきた自民党が 結党以来初めて
衆参両院で過半数を割りました
その一方で「日本人ファースト」を掲げる我が参政党が 多くの国民の支持をいただきました
この結果は単なる政治勢力図の変化ではありません それは政府与党や既成支配層に見放されたと感じる
国民の怒りであり 同時に「このまま日本を滅びゆかせてはならない」という覚悟 そして希望と変革への
熱い思いの結晶なのです
私たちは こんな国民の思いと期待を真摯に受け止めます 経済の復興による国民生活の安定 防衛力の強化
食料とエネルギーの確保 そして国民の精神的豊かさを取り戻す教育の再興
この国の礎を成す全てを再び確かなものとするため 私たちは愚直に力強く歩を進めてまいります
先人が護り抜いた日本を次の世代へ そして子や孫たちが誇りと希望を胸に生きられる未来を
この手で切り拓くために 参政党は全身全霊をもって戦い続けます
素晴らしい談話と思った 考えて見れば戦後80年 韓国や中国の顔色うかがって 差しさわりの無い または
刺激しない弱腰の政府を 今まで見せられ続けた 日本人なら堂々と胸を張り生きていくべきだ
今回も政治家で靖国参拝しない政治家が多いこと! 英霊の御霊に申し訳ないと思う 国を想い国を憂い
若くして散った先人に礼を尽くせない政治家は 人としてどうかと思う
いつもこの時期英霊に対し左翼や中韓の視線に対し堂々と主張も出来ず 顔色うかがう政治家は排除すべきだ
今日は終戦記念日である
戦争はどちらの国が正しくどちらの国が間違っている そんなレベルではない 戦争に正義も倫理も無い
戦争は悪であるが おそらく人類にとって必然なのかもしれない どこの国の人々も平和に暮らしたと願う
ことは間違いない 世界は宗教的価値観や軍需産業・独裁国家などを含めた状態にあり複雑に絡み合う
幾ら日本が戦争反対と唱えても 実際侵略されたら戦うしかない 自国の論理だけでは防げない
日本を守るということは 綺麗ごとや理想論では守れない 攻められないだけの国防も必要と拙者は考える
大東亜戦争の経緯を書いてみる
第一次世界大戦で空前の好景気を経験した日本だったが 大正9年(1920年)に戦後恐慌に見舞われてから
10年以上不景気が続いたうえ 昭和5年(1930年)には世界恐慌が波及して昭和恐慌が到来した
国民は政党内閣に失望し 軍部に期待するようになる この支持を背景に関東軍が暴走していく 関東軍は満州に
駐留する日本軍である ポーツマス条約でロシアから得た関東州(南満州の一部)と満鉄を守備するために駐留した
陸軍部隊が 大正8年(1919年)に独立して関東軍となった
関東軍は昭和6年(1931年)9月 自分たちで奉天郊外の柳条湖で満鉄線路を爆破し 蔣介石の国民政府の仕業だとして
中国基地への攻撃を開始 いわゆる柳条湖事件 日本列島の3倍近い面積を有する満州を占領しようとした
こうして始まった満州事変だが 若槻礼次郎内閣は不拡大方針を公表
ところが関東軍はこれを無視して行動を拡大 朝鮮に駐留していた林銑十郎率いる朝鮮軍も勝手に越境して関東軍の支援を
始めたすると軍中央も関東軍の行動を追認 事態を収拾できないと考えた若槻内閣は総辞職
一方不況に苦しむ国民の多くは 関東軍の行動を熱狂的に支持 翌年関東軍は占領下においた奉天・吉林・黒竜江省に
満州国を樹立 国のリーダーには清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀が就任するが 完全に関東軍の傀儡国家だった
さらに関東軍は北の興安省と西の熱河省へも進軍 ただ日本陸軍は満州だけでは満足せず 昭和10年(1935年)から
満州に隣接する華北五省を中国から切り離して勢力下におこうとした
陸軍がこれほど広大な地を支配しようとするのは 関東軍参謀・石原莞爾の世界最終戦争論の影響が大きかった
石原は
日本はアメリカと航空機戦を中心とする最終戦争を戦うことになるので、それに耐えうる国力をつける必要がある
だからまず五カ年計画で経済力をつけてきたソ連が満州を奪う前に日本の植民地にし 持久戦となってもアメリカと
戦える国力を保持すべきだ
と考えたのである
満州事変は経済的な理由も大きかった 世界恐慌から脱するためイギリスやフランスなどは 他国の商品に高関税を
かけたり輸入制限をおこない 自国と植民地とのあいだで保護貿易政策をはじめた このため日本の商品は売れなくなった
こうなってくると 植民地が少ない帝国主義国家は不利 だから新興国のドイツやイタリアは植民地の再分配を求め
軍事力を強化して他国へ侵攻し植民地を増やしていった 同じく日本も本土・台湾・朝鮮・満州と支配地を拡大し
ブロック経済圏(円ブロック)の確立を目指した
こうして日本のアジア進出に抵抗するため アメリカ・イギリス・オランダ・中国の4か国は経済的にとったんが
いわゆるABCDラインである
ABCD包囲網は 日本の経済状況を悪化させ太平洋戦争へとつながる一因となった
そして80年前の今日 昭和天皇陛下の玉音放送で無条件降伏をした